「一粒の麦が多くの実を結ぶ」  08.10.05
                      ヨハネ 12:20〜36

 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(24節)
 「一粒の麦が地に落ちて死ぬ。」これは、農業の話ではなく、
主イエスが十字架にかかって死なれることです。それによって、
多くの実を結ぶといわれます。その実は、クリスチャンである
私たちのことです。主なる神さまは、そのようにして収穫された実を、
ご自分の収穫物として、喜びをもって受け取られます。
 私たちは、主イエスの十字架の死がなければ、神さまの収穫物と
して、手にとって頂くことのできない者です。受け入れていただくことも、
愛されることもなく、神さまの前では無に等しい存在でした。人間には
罪があるからです。神さまに背き、従わない罪によって、愛されず、
目を注がれない存在でした。
 しかし、神さまは、私たちを無のままにしておこうとはなさいません。
尊く、無くてはならない、値高い存在として受け止めたいと願われました。
そのために、主イエスの十字架の出来事を起されたのです。
その十字架という贖いの死によって、私たちは罪を取り除かれました。
それによって、私たちは神さまに受け入れていただける存在に変えられ
ました。神さまの喜ばれる収穫の実として、受け入れていただけたのです。
 主イエスは、私たちのことを「自分のもとに引き寄せよう」とおっしゃい
ました。それは第一に、ご自分の十字架に引き寄せるということです。
それによって、私たちは主イエスと共に、それまでの罪ある自分に死ぬ
ものとされたのです。第二は、神さまと共にいる所に引き寄せるという
ことです。主イエスによって、私たちも神さまに受け止めていただき、
神さまと共に生きる者とされます。
 主イエスは、「自分の命を最優先する生き方ではなく、私に仕え、
私に従う歩み方をするように」とおっしゃいます(25〜26節)。
 神さまに受け入れていただいた幸いを深く味わいながら、
そのような生き方へ進み出ていきたいのです。